英語が受験の全てを決める ~続き~
さて、昨日の続きです!
個人的にはこの『精読』が一番重要、かつ時間がかかるものだと思っています。
そして、『雑な速読は百害あって一利なし』であることを最初にお伝えしておきます。
最初にお伝えついでに、今回の話は文法の話になるので、多分読んでいて嫌になる方も出てくるはずです。
もしそうなったら、遠慮なく読むのを途中でおやめください。
マンツーマンの指導であれば、目の前の1人に合わせてお話をすることができますが、今回のように文字だけでお伝えする場合は、不特定多数に向けて発信するため、『ある生徒は理解できたけど、別の生徒はまったく分からない・・・』なんてことが普通に起こってしまいます。
う~ん・・・これさえ解消できるような文章が書けたなら、山口今頃ベストセラーを出して、左団扇で暮らしているのでしょうが・・・。
まあただ、世の中にこれだけ塾や予備校が溢れかえっていて、昔も今も書店にはたくさんの参考書が並んでいるところを見ると、そんなベストセラーはこの世に存在しないことが分かります。
それは発信する側、受け手の側、どちらのせいでもなく、文字だけで全ての人の理解を得るのは難しいというだけの話です。
さて、前置きが長くなりましたが、早速本題に入ります。
【2】雑な速読の前に、まずは精読をやりこむ
色んな所でとにかく、『受験は長文の配点が高いから長文が全てを決める!』『大学受験の長文はとにかく長いから、速読できなければダメだ!』という声を耳にすると思います。
もちろん間違ってはいませんが、精読というフィルターを通さない限り、どれだけ単語を覚えようが、どれだけ長文を読む数を増やそうが、『精度の高い速読はいつまで経ってもできるようにはなりません。』
論より証拠、英語と言わず日本語で試してみましょう。
次の日本語を読んでみてください。
【言うまでもなく、人間は一個の身体として、あるいは生命体として存在している。アイデンティティを他者性との関係で捉えるとき、この身体という次元を無視することはできないだろう。当たり前の話だが、ぼくらは自己の外部から酸素や水分、栄養などを絶えず摂取しなければ生きられない存在である。身体ないし生命としての「私」を維持するために、いつも外部から「他者」を取り込まなければならない、という逆説。だが、そのように他者を取り込むということは、同時に自己が絶えず他者化されるということでもある。毒ガスや毒物という致命的な「他者」を摂取して、文字通り身体が破壊されてしまうのは、そのような他者化の極端な例である。ぼくらはひとつの身体的存在として・・・】(Z会 「現代文キーワード読解」より抜粋)
どうでしょうか?
仮にこれをものすごい速さで読んだとして、文構造や内容がしっかりと頭に入ってくるでしょうか??
もちろん、ばっちり読解できる人もいるでしょうし、(・・・なんのことを言っているのか、よく分からない。)と思っている人もいるでしょう。
そうなんです。
速読、速読と言っても、ただ文字をすごい速さで目で追っているだけでは、何も読み取れないのです。
一回目でよく分からなかったから、もう2回3回と読み直す⇒結局時間がかかる・・・速読したのに、結局時間がかかるというパラドックスに陥ってしまいます。
日本語でできないものが、英語でできるわけがない。
回り道のようでも、しっかりと文法や文構造を理解する練習を重ねて、最初は1つの文章を理解するのに数十分かかっていたのが、徐々にスピードが上がっていって、最終的にはそれらを意識することなく読めるようになる、これが速読です。
適当に目で文字を追うのは速読とは言いません。
そして、単語だけでは長文は読めないのです。
単語なんてのは土台の土台なのでやって当たり前。
単語を知らなければそもそも手も足も出ないのですから。
そこに精読が加わって、初めて得点につながるようになるのです。
先ほど紹介した難しい日本語の文章、日本語なので分からない単語はなかったと思います。
単語が分かっていても読めないというのは、そこに精読が伴っていないからです。
さて、それでは精読とは何なのか、ちょこっとだけ簡単にご紹介いたします。
次の2つの英文を読んでみてください。
①I don’t know whether he will come or not.
②I have to go whether he comes or not.
よくよく見るとこの文章、whether以下の部分はほぼ同じです。
そして分からない単語もないのではないかと思われます。
ではこの2つ、速攻で正しく訳すことができたでしょうか??
正解は①『私は彼が来るかどうか分からない。』
②『私は彼が来ようが来まいが、行かなければならない。』
でした!
さて、ここで大切なのは、訳せなかったみなさんはもちろんのこと、訳せたみなさんも、きちんとした根拠を持って訳ができたかどうかです。
whetherという単語は①『~かどうか』②『~しようがしまいが』と2つの訳があるわけですが、これは断じて文脈で判断する、というものではありません。
名詞節なら『~かどうか』、副詞節なら『~しようがしまいが』と訳すという、はっきりとしたルールがあります。
もう少し詳しく説明します。
まず①の文章ですが、
①I don’t know whether he will come or not.
Knowという動詞は他動詞ですので、その後のwhetherは、これ自体が目的語になっていることが分かります。
“I don’t know that.”のthatと同じで、ここでのwhetherは名詞として扱わなければならないので、その場合は『~かどうか』と訳さなければならないのです。
で、次の②の文章。
②I have to go whether he comes or not.
ここでのwhetherは名詞節ではありません。
理由は簡単で、その前の動詞”go”が自動詞だからです。
自動詞”go”は(前置詞”to”を伴わない限りは)そもそも目的語を取らないので、whetherが目的語のはずがないのです。
では名詞じゃないとすればなんなのかというと、『副詞節』なのです。
ん?
副詞節ってなんやねん??
それを説明すると、ただでさえ長い山口のブログが、とんでもなく長くなってしまうので割愛するとして、分かりにくければこう考えてください。
『”go”は自動詞だから、ここで一旦文章が終わってしまう』
つまりこんな感じです。
②I have to go. whether he comes or not.
『行かなきゃいけないんだよね。 彼が来ようが来まいがさ~。』
ここでのwhetherは、I have to go.という文章とは独立して、文章そのものを修飾していると考えればいいのです。
だから副詞の節、なんですね。
そう、①の文章では、knowという他動詞は必ず目的語が必要となるため、こんなことはできないのです。
×①I don’t know. whether he will come or not.
①『whetherはknowの目的語⇒だから名詞!』
②『whetherの前に文章は完結している⇒だからこっちのwhetherは副詞!』
・・・いやいや!
そんな面倒くさいことしなくても、なんとなくで分かるやん!
と思われるかもしれませんが、そんなみなさんは次の文章を読んでみてください。
同じように”whether”が出てきますので。
【It may be doubted whether we fully understand the natural processes we control , and coincidence still plays a bigger role than we like to admit in scientific progress.】
これがやれ名詞節だの副詞節だの、目的語だの主節の主語だの考えずに、すらすら訳せるのであれば、精読なんてやる必要はありません。
いや、これは嫌味とかで言っているのではなく、本当に感覚でできてしまう生徒がいるんです(ちなみに一昨年早稲田に合格した卒塾生はこのタイプで、精読しなくてもスラスラ読めてしまっていました。)
ただし、そうじゃなければ、地道に土台を築き上げてください。
私たちは日本人ですから、まったく文構造が違う英語を読むのに、そのルールも理解せずに『数をこなして速読』なんてできるわけがないのです。
最初は苦痛を伴うと思いますが、その効果は必ず出ることをお約束いたしますよ!
ふう・・・本当に長くなってしまった・・・。
最後になりますが英語に限らず、色んな教科で色んな学習法が巷に跋扈してます。
正直なところ、どれを信じるかは学習する本人です。
昨日紹介した東大生の話になりますが、『正直ノートを取ったことはありません。』と言っていました。
『岡高の先生は、東大と京大に合格するために、わざわざ課題を作ってくださっていたので、ぼくはそれを見るだけで良かったんです。』とも。
そう、そんな学習で最高の結果を残せることだってあるわけです。
あとはそれが自分自身に合っているかどうかだけです(ちなみに山口にはこの学習法、まったく合っておりません)。
もし今の学習法で思うような成果が得られていないのであれば、違うやり方を考える必要があるのかもしれません。