国語はすべての基本

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雑談

折に触れてご紹介させていただいていますが、こうして中高生のみなさんの指導をさせていただいている山口ですが、中学校時代の成績は最悪でした。

 

特に暗黒期だったのは2年生の頃で、今でも覚えていますが学年最下位を2度も取ってしまいました。

確か5教科の合計が50点にも満たなかったと記憶しています。

 

そこから約半年ほどで学年10位内に入るくらいまでは成績が上がるのですが、そこには様々な要因がありました。

取り分け一番大きかったのは、『学習時間の大幅増加』です。

 

もう簡潔に言ってしまいますが、公立の中学校で成績を上げる方法はただただ時間です。

『効率の良さ』も多少は求められるでしょうが、難関私立ほどの高度な思考が問われる問題はほとんど出ませんので、まずは量を担保することです。

 

私の中学時代を含めですが、成績が悪いお子様の一番の要因は、もうほとんど100%ただ単に『勉強をしていないだけ』。

学校の授業や塾の指導方針に疑問を持つ前に、まずは学習量が足りているのかどうかを疑うべきです。

 

 

非受験生ならば毎日1~2時間、受験生は4~5時間、ちなみに都内のバリバリの進学塾ならこの倍くらいの学習量が求められます。

 

 

そして第二の要素は『国語力の向上』、これに尽きます。

英語や数学ももちろん大切ですが、まずは国語です。

 

山口が学年最下位を脱出できたきっかけは、まず国語力が向上したことでした。

 

以前もご紹介いたしましたが、次の文章は山口が中学2年生の頃、つまり学年最下位の頃に書いていた作文です。

 

 

タイトル『海の魚の死たい』

【今日、川にふなとりに行った。とれなかったので帰ろうとした。もう一つの川を見て、びっくりした。タイが102匹、うなぎ6匹さんま、3匹、うなぎは1匹め一mほどで2匹め1m、20cmほど3匹め1mほど、4匹め、90cmほど5匹め、85cmほど、6匹め2mほど、ゆうちゃんが「タイまでおるばい。」と言った。おりて見てみると、ふなの死たいまであった。しかも、その魚の死たいは、一かしょにあつまっているのが多く、ものすごい白い目だった。海の魚がどうして来たのだろう。じつにふしぎだ。さんまや、タイや、ぜんぶ30cmいじょうある大きな魚だった。<原文ママ>】

 

これは以前帰省した時に、親父から手渡されたファイルから抜粋したものです。

 

ま~しかし・・・親というものはなぜこんなものを後生大事に保管しているのでしょうか?

でもこのようなはた目には取るに足らないものも、親にとってはかけがえのない大切なものなのでしょうね。

 

それはさておきこの文章です(苦笑)。

これはひどすぎますね・・・。

 

父親は私と違い、寡黙ないかにも昭和の九州の親父といった感じで、勉強や成績のことには大して口は出さなかったのですが、さすがに学年最下位という結果を見るに見かねて、愚息の指導に乗り出すことになったのでした。

 

ただ、課せられたのはひたすら文章を書くことです。

今にして思えば、この『文章を書く』ということが成績向上の土台を築き上げたのだと今でも確信しております。

 

読解力の向上がその他5教科の理解力向上に波及効果を及ぼすことは想像に難くないと思われますが、いざその読解力を上げるとなるとこれは難しいと思います。

 

何せ日本語ですから。

 

普段から読み、聞き、話している日本語をさらに伸ばしていくとなると、これは社会や理科の成績を上げるのよりもはるかに大変なことのように思われます。

 

学年最下位の頃の山口でも、日本語はそれなりに理解し使っていたわけですから。

 

そこで巷でよく言われる『とにかく本を読め』『毎日社説を読め』ですが、これはもちろん必要最低限やるべきことではありますが、それだけでは不充分です。

 

どんなに難解な文章でも、とりあえず読むことはできますから。

 

例えば次のような文章があったとします。

【芸術が予言的で人間の自由の旗手であり、しかも、そのことが万事万端、機械によって決定されている現代技術社会に対する芸術の先駆的挑戦であるとすれば、芸術は、その源泉こそ非歴史的であるとしても、その機能に関しては、他の文化現象と同じく、歴史の流れに身を置いていると言わなければなるまい。そして、芸術の長い連鎖を通じて達観してみると、現代芸術は全般的に言って、今までの芸術と比べてはるかに難解であると言わざるを得ない。<今道友信『美について』より一部抜粋>】

 

もちろんこれをスキミングすることはできるでしょう。

おそらく『ただ理解もせずに読むだけ』なら中学生でもできます。

 

ただしこの文章を読解するとなると話は変わってきます。

 

読解力を上げていくためには、このような難解な文章である必要はないので、とにかく自分の言葉で書く練習を重ねていかなければなりません。

そしてその他の学問やスポーツなどと同じく、それは地道な積み重ねによってしか成熟しないものです

 

重ねて申し上げますが、読解力は読むだけでは向上しません

自分の言葉で書こうとするときに目の前の文章に真剣に取り組み、自分の思考で理解するようになっていきます。

 

そしてこれは保護者様に肝に銘じていただきたいです。

こういったことはある程度強制力も必要となってきます。

 

勉強大嫌いの中学2年生の山口は、父親から『毎日文章を書くように』と言われた時に当然反発しました。

それまでに学習習慣というものを築き上げなかったのですから当然と言えば当然です。

 

ちなみに具体的には、『毎日必ず原稿用紙1枚分文章を書く』『小豆100粒を皿に入れて用意し、もう片方の空の皿に箸で移動させる』という謎の儀式が課せられ、それが終わるまでは晩御飯が食べられないというものでした。

 

もちろんこれには賛否があるでしょう。

本来であれば子ども自身が主体的に気付いて、自らの意志で決断し行動することがベストです。

 

しかし私は中学2年生に至るまで、そのようには成長しなかったのです。

勉強も学校も大嫌いでしたし、自分の進路のことなんて何も考えないような中学2年生が、主体的に学習に取り組むというのは今考えても現実的ではありません。

 

私の父親のやり方というのは、はた目には間違っていたのかもしれませんが、少なくとも現在の私程度の読解力を築き上げるのには大きな大役を担っていたの間違いありません。

 

お子さんを信じることもとても大切です。

 

ですが同時に子どもは裏切るものでもあります。

当時の山口が切々と学問の大切さを説かれたとしても、自分の意志で積極的に勉強に取り組むことなど絶対になかったでしょう。

 

当時は苦痛でしかありませんでしたが、その後成績が向上し、何とか関関同立の合格を勝ち取るくらいまでの学力を得て、今こうしてやりたいことができていることを考えると、父親には感謝の気持ちしかありません。

 

というわけで、いつも通り冗長な文章となってしまいましたが、簡潔にまとめるならば『読解力は読むだけでは身につかないので書くことが大切』『その習慣は中高生が主体的に身に着けることは難しいので、ある程度の強制力も必要(※ただしこれは山口個人の主観です。自主的に取り組めるのであればそれに越したことはありませんし、それができるお子さんも中にはいます。)。』

 

学年ビリなんて普通です。

生徒が100人いたなら、トップもいれば最下位もいるのですから。

 

そしてそこから這い上がることも誰にでもできることです。

ただしそれには苦痛も伴いますし、地道で継続的な努力が必要であることも追記させていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

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