『本当に中学校の頃に学年ビリだったんですか?』という質問をいただきましたが…。
えぇ、恥ずかしながら…。
いや、そりゃあ学年トップもどの中学校にもいるわけですから、同じようにどこにでもビリの生徒もいますよね。
内申点14くらいでしたかね…。
いや~野球部に所属していたんで、体育くらいは4や5でもおかしくなかったんですけどね…。
なぜだか体育も悪かったですね。
こんな内申点でもまあ何とかなります(苦笑)。
ただし一つだけ、確かに全体的にひどい成績ではありますが、唯一自分は国語だけは良かったです。
正確にはこの後に上がっていくのですが。
『勉強はできなくても読み書きはできなければならない』という、うちの父親の謎の教育方針で、この後毎日原稿用紙1枚以上、何でもいいから何かを書かないと夜ごはんが食べられなくなったのです。
時代錯誤もいいところですが、当時は割と『昭和の親父』みたいなのが罷り通っていたので、特に疑問には思っておりませんでした。
おりませんでしたが…。
とにかく苦痛!
ただ今にして思えば、『何かを書く』ということは、当然前提に『何かを考える』ということがあり、読解力というものがここで醸成されたのでしょう。
おかげさまで高校に入る頃には国語だけは誰にも負けなくなりましたし、それに付随して英語も爆発的に上がりました(…なんて偉そうなことを言っていますが、数学は相変わらずニガテなままでしたし、英語が上がってのもラストの1年です)。
しかしながら『経験者は語る』でこれだけは断言できますが、『読み書きができれば他の教科も必ず成績が上がる』ということです。
そしてこの現代文、なぜか『国語はセンスだから上がらない生徒は上がらない』という謎理論を平気で宣う先生もいますが、これまた断言します。
必ず上がります。
ただ、これもひたすら継続なんです。
『現代文の成績が上がらないんです・・・。』と相談してくれる中高生には、『とりあえず2、30分でいいから、毎日活字を読んでみて。内容は何でもいいよ。』と伝えます。
新聞の社説なって言ってませんよ!?
本当に何でもいいんです。
しかし数か月経ったころ、『そういえばちゃんと何かしら読んでるの?』と問いかけると、す・・・ごくばつが悪そうに、『あ…読んでないです。』と返ってくるのです。
2,30分ですよ?
何でもいいんですよ??
結局のところ、『毎日2,30分、何でもよいから読んでみる。』程度のことが継続できないのですから、そもそも『本気で読解力を上げよう!』などとは思っていないのでしょうし、その程度のことが継続できないのに『英単語やイディオムの暗記』を毎日できるわけがない、と山口などは思ってしまうのです。
現代文は日本語ですので、取り組みさえすれば必ず上がります。
ちなみに以下は先日の授業で自分がまとめた文章です。
【〈要旨要約〉 シュミットが提示する「表象の政治」においては、まず「敵」の概念を定義することを前提とする。味方である友を先に定義づけることはできず、飽くまでも「敵」を実体化・本質化することにより、それ以外のものが政治的な味方であると言える。敵というネガティブな要素を否定することにより、二重否定的に自らのアイデンティティが構成されるのである。 シュミットは、「友―敵」の抗争が最後には区別そのものの廃棄に向かうと考えていたが、それに対してアーレントは、それ以前に政治的な死があったと考えている。例えばナチスドイツにおけるユダヤ人、彼らは彼らの言動によってではなく、存在そのものでよからぬ人種と判断された。それでは政治に介入する余地などあろうはずがない。人々が現れるためには、自身だけではなく、他者が彼らに注意を向けることを必要とするが、存在そのもので判断されるのであれば、その注意そのものが廃棄されているのも同然である。〈①~③〉
そしてそういった政治的な死は、誰にでも起こる可能性がある。「孤独」な感覚は全ての人が有する者であるからだ。とはいうものの、「パーリア」と呼ばれる存在のように、本来均等に配分されるべき注意を受け取ることができず、汚名を着せられて政治的な現れを封じられる者がいることもまた事実である。 〈④~⑤〉
政治的な現れを封じられるもの、つまり被抑圧者は時に憐みの感情を持たれることがあるが、アーレントはそれを政治的には危険であるとみなした。なぜならその憐みとは、ある種一方的な先入観によるもので、被抑圧者が政治に関わる機会を失うものであると考えられるからだ。そういった一人1人の現れの機会を奪うという点において、「憐みの政治」は現れの政治とは相容れないのである。 つまり現れの空間は、他者による代理・代弁の特権的な立場が廃されているという点で、平等であると言える。その条件のもとで、全ての人は自らの意志と言葉を反映することができる、政治的行為者として遇される。 なおなぜ意見の代理・代弁が不可能なのかというと、そもそも意見はその人だけがもつ世界の見え方なので、他者が代弁することは原理的に不可能だからだ。そしてそこでは相違なる意見を交換することによってのみ、意見の差異は際立ってくる。 また同時に、意見を代理・代弁することにより、その人のアイデンティティが生み出される機会も失うことによる。各個人のアイデンティティはそれぞれ独立しており、その人のみによってしか確立することができず、すべての現れの行為によってのみ生成されていくものである。〈⑥~⑨〉】
この文章の良し悪しは読んだみなさんの主観に任せます。
ただ、これくらいの文章で良いのであれば、誰でも書けるようになりますし、今年自分の指導を受けてくれた塾生は、同レベルの文章を書いています(紹介したいのですが、確認を取っておりませんのでここでは控えさせていただきます)。
国立大学を目指すのであれば、文系理系問わずほとんどの大学で現代文の記述は必須ですし、仮に免れたとしても、少なくとも英語の英文和訳や要旨要約は間違いなくありますので、正しい日本語で文章を書く能力は絶対に必須です!
いや、例えば当塾の黒野先生みたいに、『いや~文系科目はニガテっすけど、理系科目で満点取るからいいっす!』みたいなスタイルなら、現代文や英語ができなくてもいいと思います(事実彼はそれで名大合格しているわけですし…)。
でも、なかなかそうはならないと思うんです。
『現代文はセンスが大切だから、上がらない生徒は上がらない』、そんな間違った先入観のせいで現実味がないかもしれませんが、現代文の成績は必ず上がりますし、相対的に見てもかなりコスパがいいんです。
ですので、本気で現代文を上げたいと思っている中高生は、まず『2,30分、何でもいいので毎日活字を読む』を実践してみてください。
いや、それすら継続できないというのであれば、正直もう知りません。
0には何をかけてもゼロ、何もせずして何かができるようになることは絶対にありませんので。